力(価値)の源泉-ベルトラ創業者 荒木篤実氏
国の力すなわち国力は何で測るものなのだろうか。ふとそんなありきたりのようで、ふわりとしたテーマについて思いを馳せてみた。論理的に数字でいえば、GDPやその成長率、外貨準備高、国際収支、為替相場など、さまざまな指標がある。でもこれらはすべて、過去の統計であり結果としての数値である。将来の数値(力)は誰にもわからない。
企業でいうと、企業価値すなわち上場企業なら時価総額があり、これは日々変化し可視化されている。未上場企業でも、投資家にかかれば評価額は「稼ぐ力」をベースにして比較的簡単にわかる。ただこれは、過去の実績と未来の計画値をもとに、あくまで推定する手法であり、漠然としたものだ。
一体、これら組織体あるいは社会全体での国としての力(価値)の総和とは何によって生まれ、何によって増えたり減ったりするものなのだろうか。そして、いま、どうして日本はこれほどまでに国力(価値)が下がり、あらゆる価値が安い国になりさがってしまったのだろうか。
少し視点をかえて、社会そのものについて考察してみると、これまたいろいろな考え方があることがわかる。まず資本主義や共産主義といった経済・社会体制による違いがあり、次にリーダーの統治方法による違いがある。君主政、軍事政、独裁政、共和政、など、誰がどんな形で統治するか、これも時代により地域により、常に変動してきた。いまなお、時折変動している政情不安定な国もある。
これらの違いや、変遷の裏側にあるもの、それは常に人による「力」への欲望であり、それは権力ともいわれる。たしかに国家権力というものは強い。どんな政治形態であっても、いったん国家権力(法律・条例・規則)で決まったものに反すると、罰則がふりかかってくる。当然正しい統治のために、それは必須だからそうなっているのだ。だが、権力が価値を産んでいるとはとても思えない。
企業においては、権力に対して、ガバナンスというカウンターが存在する。株主から経営陣へ、経営陣から従業員へ、とそれは統治され、管理・監督の方法(ルール)が決められている。それをお互いが守ることで、組織がまわっている。が、それが企業の力の源泉といえるもの、ではない。
私が考える「力(価値)の源泉」は、これらの権力やガバナンスによる力とはかけはなれている。それは別の言葉でいうと「人間力」というものになる。権力とはまったく縁のない言葉だ。この人間力の総和が、企業力であり、国力なのである。
人間とは不思議な力をもっている。自己否定もできるし、自己肯定もできる。失敗から学習して改善もできるし、まったく次元の違う発想を別分野に応用することで発明や革新を実現したりもする。なぜこんなことができるのだろうか。それは、人間が、自律性と柔軟性に富んだ生き物だからだと思っている。
信頼をベースに、お互いの人間力をうまく融合し、結合できる企業や社会。それこそとても強い組織だ。なぜなら、そこには共感が存在し、その上で1人ひとりが自信をもって存在でき、生きる目標をもって日々を過ごせる。ゆえに前向きな相互競争も生まれるのだ。それが組織全体での成長の源泉となり、価値を積み上げ、時を経て、真の力となる。いまの日本に欠けているのは、この人間同士の信頼・共感・善なる切磋琢磨の競争環境である。
福澤諭吉の著作である福翁自伝にこの国力についての言及がある。「国民1人ひとりが力をもってこそ真の先進国」という「独立自尊」の件だ。この言葉に最初に出会ったのは浪人時代だった。これこそ自分が将来の組織・社会で目指すべき指針だと感動した。100年以上も前の偉人の言葉だが、実に示唆に富んだ活きた言葉ではないだろうか。
パクサヴィア創業パートナー。日産自動車勤務を経て、アラン(現ベルトラ)創業。18年1月から現職。ベンチャー経営とITマーケティングが専門。ITを道具に企業成長の本質を追求する投資家兼実業家。
