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「送客」から「創客」へ、地域主体の観光街づくりを目指す-「道後御湯」宮﨑光彦氏

  • 2021年9月1日

伝統を継承しつつ常に新しい挑戦を続ける
稼働率を支えるのは「定休日」

 2018年に開業した「道後御湯(みゆ)」は、日本最古の温泉地と言われる道後のなかで、歴史的な景観を活かしながらも新しい湯宿の姿を描き出している。同館を運営する宝荘グループの代表取締役、宮崎光彦氏(崎はたつざき)は、これからは観光地が旅行会社や観光客に選ばれるための取り組みを行っていく必要があるという。従業員の働き方改革や街づくりにも積極的に取り組む宮崎氏に話を聞いた。(聞き手:弊社代表取締役社長兼トラベルビジョン発行人 岡田直樹)

宮崎氏
-はじめにご自身と施設のご紹介をお願い致します。
道後御湯 スイートの室内

宮崎光彦氏(以下敬称略) 全室露天風呂付きで客室30室の道後御湯と、和室・和洋室92室のホテル椿館、洋室86室の道後hakuroの3館を運営する宝荘グループで代表取締役を務めています。道後御湯は旧宝荘ホテルを建て替えて3年前にオープン、道後hakuroも昨年7月に椿館別館を建て替え新築開業しました。ホテル椿館は船会社が所有していたホテルを2010年に買収、子会社化したものです。

 私は1992年に入社するまで愛媛県庁に勤めていました。妻の実家が宝荘ホテルだったのですが、妻は銀行員で、結婚する際の双方の条件が「家業を継がないこと」。ところが義父が大病を患い、妻が長女だったこともあり急遽養子縁組をし、後を継ぐことになりました。私自身はサービス業、経営者には今でも向いていないと思いますが、35歳で入社して今年で30年になります。

 宝荘ホテルは1953年の創業で、私で3代目です。妻の祖父である初代は材木商をしており、この土地に大きな別荘があったのですが、進駐軍に接収されました。その後進駐軍から「これからは平和な時代が来るから宿泊業をしてはどうか」と勧められ、割烹旅館を開いたのが始まりです。

 初代は道後温泉の内湯創設に努めた人物でもあります。1953年に四国で国体が開かれた際、各旅館には大浴場がなく、1万人以上のお客様が道後温泉本館はじめ7つの外湯を使うことになりました。初代は道後の発展には内湯が必要だと考えて源泉掘削に尽力し、1956年に実現しました。道後温泉発展の最大の功労者は1894年に道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢翁ですが、初代は昭和における貢献者の1人といえます。

 2014年には「道後オンセナート」で、1年半の期間限定で草間彌生さんとのコラボレーション企画「ホテルホリゾンタル・泊まれる美術館」が大反響を呼びました。ルームチャージが税別7万8000円でしたが、国内外から多くのお客様が訪れ、この松山市×道後温泉の「最古にして最先端」の取り組みがその後のアートをフックにした誘客のきっかけになりました。

-屋号を変えた理由は何でしょうか。

宮崎 旅行形態がグループから個人に変わり、現代湯治の過ごし方をより明確に打ち出すため、歴史ある温泉地に相応しい屋号が良いのではないかと考えました。「御湯」は万葉集から取った名前です。温泉の恵みに感謝し、旅館も温泉地も代々発展していくようにという願いを込めました。

-コロナの事業への影響をお聞かせください。

宮崎 道後御湯に限っては2020年度の宿泊者数が対前年度マイナス12.5%と、大健闘しました。昨年5月は9割減でしたが、Go Toトラベルのバブルの効果は大でした。またその後も、道後御湯のお客様の4割近くを占める富裕層向けOTAではお客様評価が四国で常に3位以内と、価格価値が支持されているお陰でもあると考えています。

 また、コロナ前から朝食付きや素泊まりプランを打ち出していましたが、コロナ以降はそういった販売を全体の3割までさらに増やしつつ、単価を下げずに営業を続けてきました。今年度も4月以降は毎月黒字で、7月の稼働率は7割程度となりました。

 稼働率には、毎週水曜日を定休日とし、繁忙月の前後には月1回連休を作っていることも影響しています。働き方の改革を進めていこうと、御湯ではオープン時から原則毎週水曜日を定休日としてきました。30室という規模だからできることでもありますが、スペシャリストを除くスタッフには、フロント・接客・清掃・レストランサービスなど基本的にマルチタスクで働いてもらっています。もちろんGo Toトラベルの時期などは、休館を取りやめていればもっと売上増になっていたでしょうが、メリハリによるモチベーションアップや、社内研修、館内メンテナンスも効率的です。内心では営業したかったのですが(笑)。

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