危機をチャンスに変える 木下紘一・ホテルニューアワジ会長の発想力

ホテルニューアワジの施設内でポーズを取る木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)
ホテルニューアワジの施設内でポーズを取る木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)

思わず口ずさんでしまうテーマソング。絶景の温泉や「御食国(みけつくに)」のグルメが映し出されるCMでおなじみといえばホテルニューアワジ(兵庫県洲本市)だ。会長の木下紘一さん(80)は結婚を機に25歳で畑違いのホテル業界へ飛び込み、淡路島の観光振興に情熱を注いできた。経営破綻した宿を買収して次々に再生し、グループの宿泊施設は17拠点に拡大。旅館が持つ「和」の要素を巧みに取り入れ、時代に応えたホテルが多くの客を魅了している。

会社勤め見切り旅館業へ

入社は現在同社の女将(おかみ)を務める圭子さん(78)との結婚がきっかけだ。ホテルニューアワジの前身「水月荘」を昭和28年に創業したのが圭子さんの父親だった。

就職難の時代で上京志向から東京の製薬会社に入り、営業マンとして働いていたが、大学時代から交際を続けていた圭子さんの父親にこう迫られた。

「娘との将来をはっきりさせてほしい。結婚するなら、会社を辞めて家業を手伝ってくれないか」

30歳当時の木下紘一さん(左)と妻の圭子さん=兵庫県洲本市(ホテルニューアワジ提供)
30歳当時の木下紘一さん(左)と妻の圭子さん=兵庫県洲本市(ホテルニューアワジ提供)

観光都市・京都の生まれだったが「観光業に縁もなく、興味はなかった」。ただ東京での暮らしを続けたいと願うほど、会社勤めに魅力を感じていなかった。「今の時代と違って週に6日働いても給料は安い。営業で終日外回りすれば、煤煙(ばいえん)で鼻が黒くなるような時代だった」。圭子さんが家業の旅館に深い愛情を注いでいることにも心を動かされた。

約2年間の会社員生活に見切りをつけ43年に入社。水月荘は40年に増築されて現在のホテルニューアワジに改称されており、接客から電話応対、経理や銀行との折衝、故障したボイラーの修理までなんでもした。

いまや淡路島だけでなく関西を代表するホテルチェーンに名を連ねるようになった同社だが、当時は客室が約50で年商が7千万円ほどの小さな旅館だった。洲本の温泉街に二十数軒ある宿の中では7番目の規模だった。上位には老舗旅館がそろっており、「雲の上のような存在だったが、とにかく追いつき、上を目指すということが一番の望みだった」。

転機は51年、隣接する「淡路島グランドホテル」を買収したことだ。別館として一体運営に乗り出し、その後の増築なども奏功して63年には2館を合わせて全110室、600人を収容する温泉街随一の規模を誇るようになった。

社長に就任した平成5年、さらに90室を増築した。しかし、銀行から多額の借金をして投資に踏み切った約2年後の7年1月、阪神淡路大震災が発生した。被災で阪神高速道路が倒壊するなど、観光業界も大打撃を受けた。

成長軌道に乗った直後の同社にとってもショックは大きく、「強みとしていた団体客が途絶え、震災の影響は3年間は続いた」と振り返る。

それでも10年には一か八かの勝負となった経営判断を実行する。経営不振で閉館された「ホテルプラザ淡路島」(現ホテルニューアワジプラザ淡路島、兵庫県南あわじ市)の買収だ。銀行と交渉すべく大阪・中之島へ出向き、借金の返済猶予に加えて買収資金の融資を願い出る。当時は崖っぷちといえる状況だったが、経営環境は「必ず良くなる」との確信があった。

「何でも屋」の本領発揮

「淡路島の観光は阪神淡路大震災の被害から必ず盛り返す」

淡路島と本州をつなぐ明石海峡大橋が10年4月に開通することをにらみ、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に融資を交渉。得た資金で同年2月に「ホテルプラザ淡路島」(同県南あわじ市)の土地、建物を取得し、橋の開通に合わせて5月、「ホテルニューアワジプラザ淡路島」を開業させた。

従業員に声をかける木下紘一さん(左)=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)
従業員に声をかける木下紘一さん(左)=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)

すると12年開催の淡路花博の追い風もあって狙い通りに好業績が続く。「危機をチャンスに変えることができた」瞬間だった。

その後も16年に「四州園」(現淡路夢泉景)、19年に「淡路島国際ホテル・アレックス」(現夢海游淡路島)、23年にはグループ初の外資系ホテル「神戸ベイシェラトンホテル&タワーズ」(神戸市)など、数年に1軒のペースで買収。淡路島を中心に京都、神戸、岡山、香川、滋賀に計17施設を展開し、拠点を着実に広げてきた。

だが「数を増やしたいと考えたことはない。自然にそうなった」と拡大志向を否定する。同業他社から持ち込まれた売却案件を引き受けてきたのは、閉館したまま放置された宿を他の観光地でも見てきたからだ。

「廃虚となったホテルが野ざらしになっては、地域が寂れた空気に包まれてしまう。淡路島全体のことを思えばこそ、同業他社もわが社に今後を託してくれたのではと思う」

銀行との交渉がうまく運んだことが突破口となったが、それも職種を問わず「なんでも仕事をこなしてきたことが良い結果を生んだ」と分析する。日ごろから銀行の担当者と会い、信用を築いていたからだ。

人手不足を背景に業務のマルチタスク(同時並行)化が叫ばれる中、専門職による分業が一般的な外資系の傘下ホテルにもマルチタスクを導入した。

「立派な建物に専門スタッフを置くのが現代のホテルだが、それでは人件費がかさむし、外部委託すれば仕事の質を保てないことも多い。いざというときに臨機応変にできる社員を自社で育てることが重要。これは〝何でも屋〟として仕事をこなしてきた私が自ら体現してきたことだ」

淡路島産のハモを京都でPRする木下さん(手前)=平成29年7月、京都市上京区(ホテルニューアワジ提供)
淡路島産のハモを京都でPRする木下さん(手前)=平成29年7月、京都市上京区(ホテルニューアワジ提供)

一方で業界や経済団体の活動にも注力。洲本商工会議所は副会頭を経て平成22年に会頭に就き、令和4年まで12年間務めた。淡路島の観光団体が一体的に動ける組織体制をつくろうと、3つに分かれていた観光協会を一つにまとめ、平成22年からは淡路島観光協会の初代会長も担った。

「リーダーとして実現しなければ」と力を入れてきたのは食の魅力発信だ。地域振興にかけた思いは、成し遂げてきたホテル再生の事業と共通している。

山田啓二・前京都府知事と協力し、淡路島産のハモを京都の祇園祭に合わせてPRする恒例行事「はも道中」を始めた。通常2年で出荷される養殖フグをさらに1年長く育てた「淡路島3年とらふぐ」も、関係者向けの試食会を催すなど冬の味覚として発信を強化した。

「景色や温泉だけでなく、四季折々の食を打ち出したことで、それを目的に訪れる客が増えてきたことがうれしい」と胸を張る。

淡路島全体で魅力発信

新型コロナウイルス禍は淡路島観光にも大きな打撃を与えた。令和2年のゴールデンウイークは自治体の要請によりホテルの休業を余儀なくされた。

だが4年の売上高は163億円と、165億円を計上したコロナ禍前の元年水準に戻り、「回復は意外と早かった」という。淡路島は関西圏から短時間で行けることから、感染拡大下において密を避けながら近場で楽しめる「マイクロツーリズム」のリゾート地として注目された。

「コロナ禍からの回復は早かった」と話す木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)
「コロナ禍からの回復は早かった」と話す木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)

増加をたどる個人客を狙い、客室の一部を30年ほど前から改装していたこともプラスとなった。一般客室より広く、プライベートな空間に客室と庭園がおさめられた「楽園」シリーズの予約が急増。また、愛犬と泊まれる施設の拡充も以前から取り組み好評を得ていたが、コロナ禍でさらに需要が高まった。

昨年はこうしたニーズに応え、天然温泉の露天風呂付き客室を増やすなどしたほか、香川や滋賀で取得した運営施設にも愛犬と泊まれる客室を採用した。

客室やサービスを強化する際、最も重視しているのは「時代」を読むことだ。

「少子化の時代となり、子供のいない家庭や、子育てを終えて夫婦2人だけの世帯が増えている。そうするとペットを飼おうとする人も多い」

以前から「ペットを連れて旅行をしたい」「そんな宿が少ない」との声が客から寄せられていたという。

両親2人とその祖父母の4人の財布が1人の孫に集中する「6ポケット」の時代となり、祖父母が費用を負担して3世代で楽しむ旅行も増えている。コロナ禍に里帰りが難しくなり、プライベートな空間が保てる場所で会いたいというニーズも生まれた。

命のありがたみや人生の過ごし方を見直す機会も増えた。「人生最後の旅」と家族を連れてきたという客もいれば、高齢で体力的に大浴場へ行くのは難しいが、客室に温泉があれば家族の介助を受けながら入浴を楽しめると喜ぶ客もいる。「コロナ禍で気付かされたことは多い」と話す。

露天風呂付き客室を紹介する木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)
露天風呂付き客室を紹介する木下紘一さん=兵庫県洲本市(甘利慈撮影)

一方、淡路島には近年、観光資源の成長可能性に着目し、参入企業が増えている。人材派遣大手のパソナグループは淡路島に本社機能を移し、テーマパークやカフェなどを開発。また、米ホテル大手マリオット・インターナショナルも積水ハウスと組み、道の駅に隣接した2軒の宿泊特化型ホテルを開業させている。

パソナについては「若者を中心に日帰り客が多く、わが社とうまくすみ分けができている」と話す。道の駅ホテルは宿泊業としては競合するが、客が流れるといった影響は全くないといい、「本来、淡路島に求められているのはおいしい食や自然、旅館のもてなし」と自信をのぞかせる。

7年開催の大阪・関西万博も見据え、「島全体で宿泊客の受け皿を増やす必要性があり、いろいろなホテルができれば島の魅力の一つになる」とも。万博会場の人工島・夢洲(ゆめしま)(大阪市)と淡路島を航路でつなぐ大阪府市と交通事業者の計画にも触れ、長年の課題である首都圏からの客や訪日外国人客の増加にもつながるとみて「淡路島に一層、関心が集まる」と夢を描いている。(聞き手 田村慶子)

きのした・こういち 昭和18年、京都市生まれ。神戸商科大を卒業後、41年に全薬工業入社。43年にホテルニューアワジへ移り、平成5年に社長に就任した。27年から会長。淡路島観光協会会長、洲本商工会議所会頭などを務めた。18年に藍綬褒章、令和4年に旭日小綬章を受章。

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